八重山諸島旅行3日目その3(帰宅後編集編)

その2(八重山諸島旅行3日目その2(帰宅後編集編) - つれづれなるままに・・)からの続きです〜
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さて。

後輩が準備してくれたサザンの曲を聞きながら、向かったのは・・・お昼ごはんを食べる場所。
いくつかの候補を見ながら決めたのが・・・ココ↓

メニューは↓しか、なかったです(^_^;)

・・・なんと、シンプルな。
当初、「牛そば」にする気満々だったんですが、カレーの匂いにつられ、結局カレーに。
店内は、程良く田舎の雰囲気が流れています↓

出てきたのが・・・↓

コレが、美味しそうな匂いに違わず、びっくりするほど美味〜〜(^o^)
後輩のオーダーした牛そばもおいしかった〜〜

ちなみに、私たちの後に入ってきたお客さんで「牛そば」は売り切れだった模様。
両方味わえてラッキーでした(^_^)


で、お腹が満たされた後は、再びドライブにて美しい風景を堪能(^_^)
目指したのは、ココでした↓

昨日載せた地図を見て頂ければお分かりのように、石垣島の最北端です。
ココの景色もすごかった!!
見てください、このblueを↓

灯台はこんなカンジ。

山の緑も、ステキです

こんないい景色を見られて、思わずヽ(^o^)丿の図。

最初撮りまくった写真が全て「食事モード」だったため、慌てて写し直す後輩の図↓

散々美しい景色を堪能した後、つい手を出してしまったのは、灯台の入口で営業していた「BlueSeal」のアイスクリーム。


黒糖味を選び買ったまでは良かったが・・・暑い&風が強い、という条件だと、アイスってものすごい勢いで溶けるんですね・・・(>_<)デッカいドーでは、ありえない!!
まるで脇からバーナーで焼いているかのごとく消失していくアイス・・・・
負けずにものすごい勢いで食べましたが・・・結局ぼたぼたと垂らしてしまいました・・・(T_T)


その後向かったのは・・・

「石垣焼」という焼き物を扱っている窯元です。
この「石垣焼」、こんなカンジです↓

下の青いお皿がそうなんですが・・・透明のガラスに泥土のミネラルが溶けて
生まれるエメラルドグリーンというか、マリンブルーというか・・・その色彩がとってもキレイな焼物ですよね(^_^)

そして、私がココに訪れた大きな目的。
・・・それは、「油滴天目茶碗」でいいものがあるかをみること。

天目茶碗は、お茶道具のひとつで、私、まだ持ってないアイテムの一つなんで・・・

しか〜し。

お値段が、結構お高かった・・・・(>_<)


正確には、「バーゲン品」でそれなりのお値段のものもあったのですが・・・見るからに「お安い」・・・・

写真撮影が禁止だったので、内部は撮れませんでしたし、お茶のもの以外にはあんまり食指が動かず、結局なんにも買いませんでした〜〜


次回に期待、ということで(^_^;)

さて・・・その次に行ったのは、川平湾。
ここは、日本百景にも選ばれている、石垣島一番の観光スポットです(^_^)
駐車場に車を止め、歩いて行くと・・・・

船がいっぱいいますが、コレらはグラスボートで、キレイな海底が見えるらしいです。
らしい、というのは、私たちは乗っていないので・・・(^_^;)

そして、ここの海もやっぱりキレイ・・・

花がぱらぱらと落ちていて・・・・



これ、なんの花でしょうかね・・・椿の仲間っぽい??
チューダーさま、どうですか?

ここで、お日様がだいぶ傾いてきたんですけど・・・夕日スポットに行くにはまだ早い・・・
ということで、急遽、泡盛の製造所に見学に行くことに。
伺ったのは、川平湾のそばにある、高嶺酒造所。

「於茂登」という泡盛を製造しています。
中がガラス張りになっていて、製造過程が見られるようになっていました。

中は暑そうです・・・

そこで、おみやげの泡盛を購入した後、向かったのは、観音埼灯台

夕日の名所のひとつだそうです。
到着時には、まだ日は高かったです・・・

ここの近くには「唐人墓」というスポットがあります↓

ここは、中国福建省出身者128人の霊が祀られています。
なので、お墓が中国風なんですよ・・・

これには悲しい歴史があります。
そのことが、記載してありました・・・・

写真から文字を読むのは厳しいかも、なので、以下、ネットで調べた内容と石碑の内容を記します・・・
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1852年2月、厦門(アモイ)で集められた400人余りの苦力(クーリー)が、米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねてついに蜂起し、船長ら7人を打ち殺した。
船はその後台湾に向かいましたが石垣島沖に座礁してしまい、380人が島に上陸。 石垣の人々は仮小屋を建て、彼らを収容した。
しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島、砲撃を加え、武装兵が上陸してきびしく捜索を行った。 中国人達は山中に逃亡しましたが、銃撃、逮捕され、自殺者、病没者も続出した。
琉球王朝と蔵元は人道的に対応、島民も密かに食糧や水を運び、中国人側の被害が少なくするよう配慮した。
その後事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、生存者172人を福州に送還。
中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対の運動が起こった。 中国人が埋葬された墓は、あちこちにに点在していたが、石垣市がこれらを合祀慰霊するため、台湾政府、在琉華僑の支援もうけて、この唐人墓を1971年に完成させた。
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色鮮やかなこの建物には、こんな歴史があったんですね・・・
犠牲者の方々のご冥福をお祈りしました・・・・

その4(八重山諸島旅行3日目その4(帰宅後編集編) - つれづれなるままに・・)に続く。